聖ビセンテ・フェレールって誰?
4月5日は聖ビセンテ・フェレール(Vicente Ferrer)の日です。カタルーニャ語では聖ビセン・ファレー(Vicent Ferrer)、フランス語は聖ヴァンサン・フェリエ(Vincent Ferrier)と言います。
1350年スペインのバレンシア生まれ。17歳でドミニコ会入りをし、カタルーニャのレリダ、バルセロナ、フランスのトゥールーズで学びます。説教者としてヨーロッパ各地を巡り、
民衆を引き付け、奇跡を起こすとして人々から尊敬されました。1419年ブルターニュ地方ヴァンヌで亡くなり、後に聖人に認定されました。
どんな人柄?
スペイン人らしく(?)演説がうまく、民衆の心を強くひきつけ、人気を博しました。スペインだけでなくヨーロッパ各地でもロバに乗って旅をし説教を行い、各地に奇蹟やエピソードを残しています。1409年にバルセロナを訪問した時にはロバに乗る彼の後ろを
3000人がついて歩き、マヨルカ島を去る時には、見送る人々で港が埋め尽くされたと言います。
ますます説教者として活躍
1394年ペドロ・デ・ルナがベエディクト13世としてアヴィニョン教皇に選ばれると、大司教や枢機卿の立場として誘われますが、断ります。その頃、お告げも受けたことから、
その後は徒歩で村を回り、説教者として生きていきました。亡くなるまでの20年間続き、ヨーロッパ各地を回りました。
フェルナンド1世との関係
カタルーニャ・アラゴン王国のマルティン王が後継者不在のまま亡くなった後の領土問題で、教皇ルナの意向を受け、カスティーリャ王国のフェルナンド1世を支持。1412年の”カスペの妥協”と呼ばれる会議で一番最初に投票し、
フェルナンド1世選出に貢献したとされます。
教皇ルナとの関係
枢機卿だったペドロ・デ・ルナ(後の教皇ルナ)と親しく、長らくアヴィニョン教皇庁派でした。クレメンス7世を支持し、その後を継いでペドロ・デ・ルナがベネディクト13世として教皇になった後もアヴィニョンに仕えました。教皇ルナがペニスコラに移り住んだあとも引き続き支持しました。
しかし長く続く教会分裂の解決のため、ローマ教会再統一に動きに考えを変えます。1414年にはフェルナンド1世とともにモレーヤ(モレーリャ)にて教皇ルナの説得に努めますが、失敗。1415年にはコンスタンツ公会議で3人の教皇の廃位が決定。
1417年には正式に廃位と、あらたにマルティヌス5世が教皇に選出され、教会分裂は終わりを告げました。
モレーヤ(モレーリャ)の奇蹟
有名な奇蹟のひとつは、上記の教皇ルナ説得で訪れたモレーリャで起きました。滞在していた家庭には、精神的に問題のある母が、ビセンテ・フェレールに何を食べさせようかと悩みます。夫に相談すると、
「うちにあるもので一番良いのでいいじゃないか」と答えられ、自分の家で一番大事なものとして、生まれて6か月の息子を料理してしまうのです。食事をしようとして気づいたビセンテ・フェレールは息子をよみがえる奇蹟を起こします。
しかし母親が味見の時に食べてしまった指だけは戻らなかったというエピソードです。
晩年の様子
亡くなる前にはフランスを旅していました。病がひどくなった頃バレンシアに帰ろうとしますが、ヴァンヌの港を出ようとしたところで、ひどい嵐に遭います。これはヴァンヌに残るようにという神のお告げではないかと、
ヴァンヌで人生を終えることに決め、かの地で 1419年4月5日に亡くなりました。ヴァンヌの大聖堂で眠っています。ヴァンヌでの埋葬には埋葬費用を民衆が進んで工面し、埋葬を見送りました。
・・・・・・・・・
●モレーヤ(Morella)は観光もできて食べ物も美味しい村です。トリュフの季節もお勧めです!動画もありますよ!↓